料亭那覇物語

第8回 大分の疎開先での終戦、酒饅頭の立ち売りで留置場へ 終戦になってからフミは思いがけない場所で夫 安儀の死を知らされた。 名渡山愛順画伯の提唱により、大分と熊本の両県民への謝意をかねた 沖縄伝統文化の紹介と銘打った琉球古典芸能公演が昭和二十一年に竹田市公会堂と 熊本市で催された。真境名由康、金武良章さんらと共演したフミが「伊野波節」を踊って 楽屋に戻ったとき、客席にいた沖縄からの復員軍人がかけ込んで来て夫の戦死を告げた。 だがフミは動揺を隠して公演を務めあげた。 さらに、その翌日から闇米を担いで大分市まで行き、帰りにはイリコを仕込んで村へ帰るという 気丈さだった。村人の協力でつくった饅頭を駅頭で売ったり、その細腕に六人の命がかかっていたこともあって、農耕兼業の運び屋にいっそう精を出したのである。 大分駅前で売り出したフミの酒饅頭(サカマンジュウ)は飛ぶように売れ、フミの周りには疎開者が次つぎと集まってきた。話は瞬く間に広がり、フミの働きを見てモチづくりの経験を生かした立ち売りグループの県民主婦仲間が駅前に出現した。 だが終戦直後の、闇取締まりとよばれた物資統制令がきびしい監視下で進められている時である。問屋はそう簡単には卸さなかった。おそらく地元の駅前の闇屋からのネタミの密告だろうか、 大分市警察署に通報され、フミとこの疎開者主婦グループは一網打尽、留置場に連行された。 留置場では材料の小麦粉の仕入れ先がきびしく訊問されたが、疎開者への同情と協力でせっかく分けてくれた松本村の農家の好意を無にすることはできない。みんなが黙秘を通したら三日も留め置かれることになった。 家に残した姑と幼い子どものことが胸に重くのしかかってきて気が気ではない。 さすがに気丈なフミもどうしたものかと思い悩んだ。 だが三日目に「捨てる神あれば拾う神あり」で、沖縄県人連盟大分県支部の幹部と名乗る石川源次さんという人が大分市警察署に現れ、疎開者の生活窮状を訴え、「沖縄県民は戦争の最大の犠牲者なのに留置するとはなにごとか」と抗議して彼女たちを釈放させたのである。 フミにとっては第一回目の留置場経験だった。というのは、戦後具志川の

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第1回 創業者 上江洲フミ(うえず ふみ)
小説よりも奇なるおいたち

上江洲フミとはどんな人だったか。
戦前なら「辻(つじ)でも珍しい古典舞踊の名手」「演説カマデー」
戦後では「三人の母親に仕えた孝女」「辻を現代風の観光料亭につくりあげた実業家」
総じて「沖縄の女傑」などと言われております。
しかし、これらはいずれも彼女の一面を語っているにすぎない。

彼女は人に接するときは誰にでも常にニコニコして愛嬌がありました。
むつかしい話し合いのときでもテーファー話(ジョーク)や失敗談などを折り混ぜながらユーモアたっぷりに進めるので、居合わせた人々もつい心を和ませてしまう。話術にも豊かな包容力が伝わってくる女性でした。

それは辻で身に着けた社交性や躾(しつけ)が自身となって生まれたものなのか、辛酸な生い立ちが生み出したものなのか、トートーメー(沖縄の先祖供養)からキリスト教まで含めた厚い信仰心によるものなのか、おそらくその全部であろう。

ともかくフミの八十年の生涯は、琉球古典芸能、琉球料理、マナーなど、往年の辻文化を栄養に沖縄を生きぬき、沖縄女性のやさしさと強さを体現し、波瀾とロマンに彩られた一生であったといえよう。

「ウンチョー、ジンブンヌイチベー、マチクディルメンセータシガ」

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第2回 創業者 上江洲フミ(うえず ふみ)
小説よりも奇なるおいたち-2

「ウンチョー、ジンブンヌイチベー、マチクディルメンセータシガ」
(この人は、人1倍の知恵を秘めておられる人でしたよ)

料亭那覇で長く仲居を勤めている姐さんはこう語る。
とにかく席を温めることを知らない働き者で、行動半径が大きくて神経も太い。
従業員に言わせると”なにがなんだかわからない人”だったという。

そんな超大型女将の印象を残して創業者の宇江洲フミは、平成5年4月12日、生まれたときと同じ春の季節にこの世を去っていった。

宇江洲フミは大正2年の春に奥間政治、マナシーの三女として沖縄県八重山郡の離島・黒島で生まれた。この黒島の奥間家の先祖は琉球王朝時代末期、王朝首都 首里から流刑された政治犯であった。

フミの祖父奥間政仁は首里の名門奥間門中に属する士族(宜野湾間切在)の身分だったが、首里王府系の身分の高い人が嫁にと嘱望した女性が政仁に思いを寄せていたことが仇となって、政仁は彼女との結婚を九日後に控えたとき、突然八重山移住を申し渡されたという。

結局その女性は宜野湾で独身を通して生涯を終えた、との哀話が語り継がれている。
黒島は大正時代まで、石垣島からの便船も月に一度か二度しか通わないという絶海の孤島であった。

当時、黒島の隣の西表島は炭鉱景気に湧いていた※。この労働者を相手にマチヤ(雑貨店)を営んでいた久米島から来た夫婦が、天馬船とクリ舟で石垣島に商品物資の買い付けに行く途中、シケにあって黒島に避難してきた。

しばらく滞在しているうちにフミの両親ともなじみになり、子供のいない夫婦だったせいかフミを特別に可愛がるようになった。

ところがある日突然フミが行方不明になった。
両親は、もしやあの夫婦が連れ去ったのではないかと西表島に渡り、あちこち訪ねまわった。

しかしその夫婦は小さな女の子を連れて沖縄本島へ行ったということだけで、その行方を追う手がかりは皆目つかめなかった。
当時フミは二歳、可愛い盛りであった。

※西表炭鉱について
西表炭鉱はその名の示すとおり西表島にかつてあった炭鉱で、明治十九年(1886)から太平洋戦争終結まで六十年余りも続いた。

八重山諸島では子供たちが親のいう事を聞かないときは、「イチマン売イするぞ」(糸満(漁師の町)へ身売りするぞ)とか、「西表炭鉱に売るぞ」といったおどかしの対象として使われたほど恐れられていたという。

西表で石炭が採掘されるようになったのは明治政府の後押しで三井物産は県内の囚人百数十人を使ってはじめたのが最初であったが、マラリアのため長続きしなかったという。

本格的な採掘は大正時代に入ってから、わが国が日露戦争の勝利で富国強兵策を推し進めながら”欧米に追いつき追い越せ”の時代背景があったことも見逃してはならない。

三井が採掘に入る前年の明治十八年、明治政府の元老であり日露戦争で参謀総長として活躍、わが国を勝利に導いた山縣有朋(やまがたありとも)が内務大臣として長門丸で西表島を視察に訪れていたことは以外に知られていない。この事実をひとつとってみても国策として西表炭鉱がいかに重要視されていたかを伺い知ることができる。

三井はその後直接手は下さず、多くの会社に下請けに出したが採掘された石炭の出荷先は主に中国大陸で、日中戦争時代は採炭量も輸出量もピークを迎えていた。

炭鉱夫の多くは九州を主とする本土や沖縄本島の人が多く、明治の末ごろから中国人、台湾人の使役もみられた。昭和期に入ると台湾人経営の会社も参入してきて、数百人余の台湾人抗夫が働いていた。

抗夫たちは斡旋人の甘言に乗せられて送り込まれた人が多かった。約束と違う低賃金と長時間労働に駆り立てられ、借金、重労働、病気の悪循環で苦しめられ、逃亡も繰り返されたが、発見されて捕らえられるとリンチが加えられて悲惨をきわめたという。

参考文献:「沖縄百科事典(沖縄タイムス社)」「西表炭鉱ー関太郎(ひるぎ社-三木健 著)」
「民衆史を掘るー西表炭坑紀行(本邦書籍刊 −三木健 著)」

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第3回「身代金百二十円で辻へ」

これまでの経緯ー宇江洲フミは大正2年の春に奥間政治、マナシーの三女として沖縄県八重山郡の離島・黒島で生まれたが、マチヤ(雑貨店)を営んでいた久米島から避難してきた来た夫婦が、しばらく滞在しているうちにフミの両親ともなじみになり、子供のいない夫婦だったせいかフミを特別に可愛がるようなりその後突然フミが行方不明になった。

両親は、もしやあの夫婦が連れ去ったのではないかと西表島に渡り、あちこち訪ねまわった。
しかしその夫婦は小さな女の子を連れて沖縄本島へ行ったということだけで、その行方を追う手がかりは皆目つかめなかった。
当時フミは二歳、可愛い盛りであった。

以後フミは久米島で奇しくも同姓の奥間夫婦に育てられた。フミが五歳になったとき、山っ気の多い養父は大東島へイカ釣りにと言って島を出たまま帰らぬ人となった。

フミは子守奉公に出たりして傾いた家計を助けなければならなくなったが、その頃フミの家に島にいる口入屋がやってきて養母を口説いた。
「娘は年頃になると大阪の紡績工場へ行って働くだろうが、もし辻へ売ったらあんたも助かるよ」

はじめは養母も渋っていたが、「学校もだしてやる」と言われて「そういう条件なら」とフミを百二十円で売る決心をした。当時の沖縄では年期奉公という名の人身売買が盛んに行われていた。

明治5年、琉球王府が廃されて以来、沖縄の経済は昭和初期のソテツ地獄と呼ばれた時期までずっと慢性不況にあった。

したがって農漁村、都市を問わず税金滞納も含めて借金のやりくりには多くの家ですぐ息子や娘を”イチマン売イ”(糸満の漁村へ子供を売る)や”チージ売イ”(辻に娘を売る)などに出しいわゆる年期奉公と称した。

この話で有名なのは國場組の創設者國場幸太郎氏で、国頭村山中の屋取(ヤードイ)地域の開墾部落で生を享けるが、小学校に上がる前に弟と二人イチマン売イに出された。その後いったんは生家に引き取られて小学校に入るが、卒業前に再び七十円で大工の棟梁のもとへ七年の年期奉公に出されている。女子の場合、京阪神紡績工場で女工として出されたりアダン帽子の編工になれるのはいいほうで、辻に売られる少女が跡を絶たなかった。

こうしてフミは辻町の中道にあった第三新鶴楼のアンマー(楼主)を抱え親として住み着くことになった。大正八年、六歳であった。

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第4回「身売りされてから小学校入学」

これまでの経緯ー黒島の両親から二歳のときに子供のいない久米島の雑貨商夫婦にさらわれ、その養父が亡くなり生活苦から、六歳のとき、養母に沖縄本島の辻に身売りされた。売られるといっても辻の場合は女社会であり、抱え親との関係を「アンマー(母親)クワ(子)」と呼び合い、その言葉通り主従関係は実の親子と同様であった。
辻でのフミの仕事は客の使い走りとアンマーの小間使いなど、さまざまな雑用であったので、早く寝ることはできなかった。

フミが八歳になったとき、アンマーは久米島の養母との約束を守って松山小学校に入学させてくれた。これを機会にフミは「比嘉文子」と抱え親の姓を名乗った。生来、明るい性格だったので友達がたくさんできた。

三年生の頃だった。ある日の朝、アンマーがフミに五十銭銀貨を与えて、「東町の市場へ行ってお茶を買ってきなさい」と言いつけた。フミは五十銭玉を持って、おいしいお茶を売っている東町の市場に向かった。

ところが途中で明視堂という店のショーウィンドーに、沖縄ではじめての水着が展示されていた。正札をみたらちょうど五十銭だった。
フミは欲しくてたまらず、子供心についフラフラとその黒い水着を買ってしまった。
その足でナンミン(波の上)の海岸に行って夕方まで泳いだ。
ようやく水平線に陽が沈むころ岸に上がって髪を乾かし、身支度を整えて辻の店に帰った。

店に着くとアンマーはものすごい形相で、「いもごろまで何をしていた!、お茶はどうした!?」
と問い詰められ、しかたなく水着を買ってナンミンで泳いできたことを白状した。するとアンマーは「ヌーイーヒャ−、クヌ、フリムン!」(何だってこのバカモン!)と激怒した。

フミはその罰として三日間押入れに入れられ、学校ももう出さない、と言われた。
その三日のあいだ、押入れのなかでフミは親を恨み続けた。
―どうして私を生んだのか、生まれてこなければこんな苦労もしないですんだのに・・・・と。

三日たってやっと押入れから出されたが、廊下に薪を三本並べた上に座らされ、「これから二度とあんなことはしません。」と侘びを入れてやっと許された。

学校にも行かせてもらえなくなった。だが何日かたって担任の女教師与儀先生が、フミの級友四、五人とやってきて、アンマーに「どうか私に免じて許してあげて、学校に登校させてください。」と懇願してくれたので、やっと復校することができた。この与儀先生は後に、久米町の名家神村家へ嫁いでいる。

辻から通う小学校の同級生にフミと同じ境遇で、辻に売られてきた比嘉ヨシ子がいた。朝は起きるのがどうしても遅くなるので、二人でゆうべの残飯をかき込んで登校した。彼女もすでに亡くなったが後に糸満の神谷医院の奥様となった人である。またフミは足腰が丈夫だったことから五年生のとき学校のリレーの選手になり、那覇市八校連合運動会に備えて、競技会場の奥武山運動場に練習に通っていた。

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第5回 創業者 上江洲フミ(うえず ふみ)
小説よりも奇なるおいたち-5

これまでの経緯ー宇江洲フミは大正2年の春に奥間政治、マナシーの三女として沖縄県八重山郡の離島・黒島で生まれたが、二歳のときに
マチヤ(雑貨店)を営んでいた久米島から避難してきた来た子のいない夫婦にさらわれ、久米島でその夫婦に育てられたが、養父の不慮の死による生活苦から養母に身売りされてしまう。身売りされた沖縄本島の辻で忙しく働きながら、小学校に通うフミであった。

「三人の母」

ある日、奥武山の練習帰りに、渡地の橋のたもとで色の黒いおばさんがフミを待ち受けていた。そして、いきなりフミを抱きしめたかと思うとさめざめと泣き、「あんたの本当のお母さんだよ。
黒島には姉さんも叔父さんもいるから明日は一緒に帰ろうね」と言う。フミは驚いてうなずいたが、明日にも黒島へとなると抱え親にもことわらなけらばならない。

辻の抱え親は、実母の話に耳を傾け、もらい泣きした。だがフミを別室に呼んで、「学校も残っているし、ここにいたほうが親孝行もできる」と言い含めた。あくる日、結局フミは渡地の船着場に行かなかった。実母は一人しょんぼり黒島に帰った。しかし実母は諦めなかった。半年ほど経った頃、当時、石垣町議をしていた親戚を伴い、親類縁者から集めたフミのドシル(身代金)返済の金百二十円を持って再び辻にやって来た。
久米島からも義母を呼び出し、抱え親を含めた三者の対決的な話し合いになった。

 実母が「私の娘を盗んだ」と切り出せば、
「そのかわりサバニ(船のこと)を置いていったではないか」と養母。
あいだにたった石垣の町議も、結局、フミ本人の意思に任せるよりほかはないと判断するに至った。五年生のフミは迷ったあげく、やはり辻に踏みとどまることにした。以後、フミには三人の母ができた。

 実母出現のごたごたで、義務教育の小学校も卒業を目前にして中退したフミは、芸妓修業に専念することになった。芸事は辻町の奥村渠(ウークンダカリ)にあった玉城盛重翁の門をたたき、琴と古典舞踊の手ほどきを受けることからはじまった。
女学校への進学を温めていたフミであったが、そのウサを晴らすように踊りの稽古に打ち込んだ。

 その甲斐があったことと、よほど、素質に恵まれていたとみえて、周囲も驚くほど腕を上げていった。フミの指導には盛重翁もことのほか力を入れ、古典舞踊の難関といわれる「諸屯」「伊野波節」を三年がかりで熱心に仕込んでくれた。

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第6回 演説カマデー

これまでの経緯ー宇江洲フミは大正2年の春に奥間政治、マナシーの三女として沖縄県八重山郡の離島・黒島で生まれたが、二歳のときにマチヤ(雑貨店)を営んでいた久米島から避難してきた来た子のいない夫婦にさらわれ、久米島でその夫婦に育てられたが、養父の不慮の死による生活苦から養母に身売りされてしまう。身売りされた沖縄本島の辻で忙しく働きながら、小学校に通うフミであった。

ある日実母が探し当てて辻に迎えに来たことにより、フミには三人の母(産みの親、子がないことから連れ去り育てたが生活苦でフミを身売りした養母、辻の身請けしたアンマー(抱え親))がいることで同様し悩むフミ。
結局学校もあるため、実母のいる黒島には帰らず辻に残ることを決心し、玉城盛重翁の門をたたき、琴と古典舞踊の手ほどきを受けるフミであった。

演説カマデー

フミが十六歳、琴の稽古に励んでいる頃のことである。その年、昭和三年二月に沖縄で第一回普通選挙がおこなわれ、労働農民党の気勢は高潮していた。これを受けて三月八日に那覇市公会堂で婦人開放大会が開かれた。

そのとき、たまたまアンマー(抱え親)の買い物のお供をして公会堂の前を通りかかったフミが、「ディーサイ、チチインジャビラナ」(さあ、中に入って聞いてみましょう)と言ってアンマーとともに会場の中に入った。

演説会のなかで首里に住む一女性が飛び入りで演説を申し入れてきて、「私の夫は連日辻の遊郭に入り浸って家庭を省みず、私は子どもを抱えて苦労している。一日も早く辻を廃止しないといけません」と大演説をし、場外にあふれるほどいっぱいしていた参会者から大きな拍手を受けた。

それを聞いたフミはすかさず立ち上がって反論をさせてくれと申し込み、演壇に立った。
「私は辻遊郭に住んでいますが、私たちは好き好んでこの土地にいるのではありません。
親きょうだいを助けるため犠牲になってのことで、それは社会が悪いのであって、私たちが悪いのではないのです」とフミは遠い黒島から久米島に連れ去られ、辻に身売りされた自分を顧みながら意見を述べた。これもまた会場から大拍手を受けたが、これにはさすがの婦人運動家たちも黙ってしまった。

翌日、当時の新聞『沖縄朝日』は「演説カマデー」とフミのワラビナー(幼名)を付したタイトルをつけ、四段抜きで論旨明快で堂々たる反論だった、と大きく報道している。
さらに「沖縄における廃娼運動のはじめ」としているが、この集会は婦人の政治的自覚をうながす端緒となり、婦人運動を前進させる一定の役割をはたしたといわれ、フミの反論の事柄は『沖縄県史』第三巻『慢性的不況と県経済の再編」(安仁屋政昭・仲地哲夫)にも記録されている。

その直後、山田有幹氏ら労農党幹部四人がフミの店を訪れ、入党を積極的に促しているが、フミは首をタテにふらなかった。
以後、「演説カマデー」は、フミのニックネームにもなった。 何はともあれ、とにかくフミには少女のころから度胸と弁舌の勝った素質がみられたのである。 

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第7回 念願の結婚、そして沖縄戦

これまでの経緯ー宇江洲フミは大正2年の春に奥間政治、マナシーの三女として沖縄県八重山郡の離島・黒島で生まれたが、二歳のときにマチヤ(雑貨店)を営んでいた久米島から避難してきた来た子のいない夫婦にさらわれ、久米島でその夫婦に育てられたが、養父の不慮の死による生活苦から養母に身売りされてしまう。身売りされた沖縄本島の辻で忙しく働きながら、小学校に通うフミであった。
ある日実母が探し当てて辻に迎えに来たことにより、フミには三人の母(産みの親、子がないことから連れ去り育てたが生活苦でフミを身売りした養母、辻の身請けしたアンマー(抱え親))がいることで同様し悩むフミ。
結局学校もあるため、実母のいる黒島には帰らず辻に残ることを決心し、玉城盛重翁の門をたたき、琴と古典舞踊の手ほどきを受けるフミであった。。
十六歳のある日婦人解放大会の演説会のなかで、辻遊郭廃止論を論じた女性に対して、反論したフミの演説の度胸と演説のすばらしさから「演説カマデー」のニックネームがついた。

念願の結婚、そして沖縄戦

十七歳を迎えた春からフミは座敷に出るようになった。まもなく、那覇市の大富豪で平尾商店社長平尾喜一の目にとまり、身請けされることになった。

フミが当時貴族院議員として飛ぶ鳥を落とす勢いだった平尾の目にとまったきっかけは、先に那覇市公会堂でおこなわれた婦人開放大会だった。参会者のひとりとして群集に混じってフミの演説を聞いた平尾は、「ジュリにもあのように堂々と意見を述べる者がいるとはーーー」と大いに感動し、直後に店を訪れてフミの見受けをアンマーに交渉したのである。

二十二歳になるとフミは一本立ちのアンマー格として、第三新鶴楼の店を取り仕切るようになった。
その年、首里出身で警察官だった上江洲安儀と結婚した。
安儀は好男子で、中学時代から柔道、空手など武道の誉れ高く、日本武道専門学校を志しながら家計の苦しさで果たせず、警察官となった。辻入口の西武門交番に勤務しているときフミと知り合い、互いに結婚への思いをつのらせていったのである。

フミにとって結婚は、囲い者から開放されて自由を手に入れ、チージンチュ(辻の人)からジュク(一般社会)の陽の当たる場所に出ることである。これはフミが心から待ち望んでいたことであった。

翌年、長男が誕生、次男、三男と続き、四男が生まれる直前の昭和十九年、十二月に夫安儀は現地招集で沖縄守備郡に入隊となった。四男は十・十空襲で那覇を追われ、山原の非難先で生まれたが、以後、フミとその一家も沖縄戦と運命を共にすることになったのである。

昭和二十年二月二十五日、最後の疎開船で大分県竹田市郊外の松本村へ向かった。八十歳近い姑(夫の母親)と五人の子ども、それに子守の娘も加わった七人が彼女にぶら下がるようにしての疎開であった。

沖縄人はスパイだ

昭和二十年、初夏を迎えた沖縄戦のさなかから終戦の八月にかけて、沖縄基地から発進する米軍機の九州各県に対する空爆が日増しに激しくなっていったころのことである。「沖縄県民は皆スパイだ」との無責任な噂が流布されるようになった。この流言蜚語には「大本営の情報では」といったもことしやかなウソの尾ひれまでついてた。
そのために九州にいた県民疎開者の多くが困惑し、肩身の狭い思いをしていた。

米軍機からばらまかれる降伏勧告ビラに、「沖縄ではこのように米軍兵士と住民が仲良く平和に暮らしています」と占領地区の情景写真が刷り込まれていたこともその噂の信憑性を高めたようである。

流言は流言を呼び、「米軍の捕虜になった沖縄県民が、壕内に隠れている日本兵の在所を教えたので火炎放射器でみんな焼き殺されてしまった」ともささやかれていた。捕虜が同胞の命を救うために隠れている壕を教えたのが、却って裏目に出てしまったのである。

夫安儀の給料は一銭も入らないうえ、沖縄からの情報も途絶え、フミは四面楚歌の状況に陥った。が、フミは沖縄人はスパイだという噂も一時のフーチヤンメー(流行性伝染病)に過ぎないのだと腹をくくり、生き抜くための手段を講じるため村長に会った。
「沖縄は玉砕して帰るところがありません。六人を養わんといけませんので、私に村有地の荒蕉地を貸してください」と哀訴して開拓の許可をとりつけると、フミはいささかもくじけることなく状況を打開するために立ち向かって行った。

フミは山の中腹にある荒蕉地を借り受け掌に血まめをつくりながら、ときには雪を突いて開墾に励んだ。米と麦の収穫をみて村人も、「女だてらに」と目を見張った。
しかし、乳飲み子だった四男が風邪をこじらせ肺炎で亡くなったのもこの頃で、大雪の日であった。その葬儀の日は松本村君ガ園の人たちが総出で野辺の送りに立ち会ってくれた。
フミは心温かい人たちに心の中で手を合わせた。