料亭那覇物語

02/06 11’
第3回「身代金百二十円で辻へ」

これまでの経緯ー宇江洲フミは大正2年の春に奥間政治、マナシーの三女として沖縄県八重山郡の離島・黒島で生まれたが、マチヤ(雑貨店)を営んでいた久米島から避難してきた来た夫婦が、しばらく滞在しているうちにフミの両親ともなじみになり、子供のいない夫婦だったせいかフミを特別に可愛がるようなりその後突然フミが行方不明になった。

両親は、もしやあの夫婦が連れ去ったのではないかと西表島に渡り、あちこち訪ねまわった。
しかしその夫婦は小さな女の子を連れて沖縄本島へ行ったということだけで、その行方を追う手がかりは皆目つかめなかった。
当時フミは二歳、可愛い盛りであった。

以後フミは久米島で奇しくも同姓の奥間夫婦に育てられた。フミが五歳になったとき、山っ気の多い養父は大東島へイカ釣りにと言って島を出たまま帰らぬ人となった。

フミは子守奉公に出たりして傾いた家計を助けなければならなくなったが、その頃フミの家に島にいる口入屋がやってきて養母を口説いた。
「娘は年頃になると大阪の紡績工場へ行って働くだろうが、もし辻へ売ったらあんたも助かるよ」

はじめは養母も渋っていたが、「学校もだしてやる」と言われて「そういう条件なら」とフミを百二十円で売る決心をした。当時の沖縄では年期奉公という名の人身売買が盛んに行われていた。

明治5年、琉球王府が廃されて以来、沖縄の経済は昭和初期のソテツ地獄と呼ばれた時期までずっと慢性不況にあった。

したがって農漁村、都市を問わず税金滞納も含めて借金のやりくりには多くの家ですぐ息子や娘を”イチマン売イ”(糸満の漁村へ子供を売る)や”チージ売イ”(辻に娘を売る)などに出しいわゆる年期奉公と称した。

この話で有名なのは國場組の創設者國場幸太郎氏で、国頭村山中の屋取(ヤードイ)地域の開墾部落で生を享けるが、小学校に上がる前に弟と二人イチマン売イに出された。その後いったんは生家に引き取られて小学校に入るが、卒業前に再び七十円で大工の棟梁のもとへ七年の年期奉公に出されている。女子の場合、京阪神紡績工場で女工として出されたりアダン帽子の編工になれるのはいいほうで、辻に売られる少女が跡を絶たなかった。

こうしてフミは辻町の中道にあった第三新鶴楼のアンマー(楼主)を抱え親として住み着くことになった。大正八年、六歳であった。