料亭那覇物語

02/06 11’
第7回 念願の結婚、そして沖縄戦

これまでの経緯ー宇江洲フミは大正2年の春に奥間政治、マナシーの三女として沖縄県八重山郡の離島・黒島で生まれたが、二歳のときにマチヤ(雑貨店)を営んでいた久米島から避難してきた来た子のいない夫婦にさらわれ、久米島でその夫婦に育てられたが、養父の不慮の死による生活苦から養母に身売りされてしまう。身売りされた沖縄本島の辻で忙しく働きながら、小学校に通うフミであった。
ある日実母が探し当てて辻に迎えに来たことにより、フミには三人の母(産みの親、子がないことから連れ去り育てたが生活苦でフミを身売りした養母、辻の身請けしたアンマー(抱え親))がいることで同様し悩むフミ。
結局学校もあるため、実母のいる黒島には帰らず辻に残ることを決心し、玉城盛重翁の門をたたき、琴と古典舞踊の手ほどきを受けるフミであった。。
十六歳のある日婦人解放大会の演説会のなかで、辻遊郭廃止論を論じた女性に対して、反論したフミの演説の度胸と演説のすばらしさから「演説カマデー」のニックネームがついた。

念願の結婚、そして沖縄戦

十七歳を迎えた春からフミは座敷に出るようになった。まもなく、那覇市の大富豪で平尾商店社長平尾喜一の目にとまり、身請けされることになった。

フミが当時貴族院議員として飛ぶ鳥を落とす勢いだった平尾の目にとまったきっかけは、先に那覇市公会堂でおこなわれた婦人開放大会だった。参会者のひとりとして群集に混じってフミの演説を聞いた平尾は、「ジュリにもあのように堂々と意見を述べる者がいるとはーーー」と大いに感動し、直後に店を訪れてフミの見受けをアンマーに交渉したのである。

二十二歳になるとフミは一本立ちのアンマー格として、第三新鶴楼の店を取り仕切るようになった。
その年、首里出身で警察官だった上江洲安儀と結婚した。
安儀は好男子で、中学時代から柔道、空手など武道の誉れ高く、日本武道専門学校を志しながら家計の苦しさで果たせず、警察官となった。辻入口の西武門交番に勤務しているときフミと知り合い、互いに結婚への思いをつのらせていったのである。

フミにとって結婚は、囲い者から開放されて自由を手に入れ、チージンチュ(辻の人)からジュク(一般社会)の陽の当たる場所に出ることである。これはフミが心から待ち望んでいたことであった。

翌年、長男が誕生、次男、三男と続き、四男が生まれる直前の昭和十九年、十二月に夫安儀は現地招集で沖縄守備郡に入隊となった。四男は十・十空襲で那覇を追われ、山原の非難先で生まれたが、以後、フミとその一家も沖縄戦と運命を共にすることになったのである。

昭和二十年二月二十五日、最後の疎開船で大分県竹田市郊外の松本村へ向かった。八十歳近い姑(夫の母親)と五人の子ども、それに子守の娘も加わった七人が彼女にぶら下がるようにしての疎開であった。

沖縄人はスパイだ

昭和二十年、初夏を迎えた沖縄戦のさなかから終戦の八月にかけて、沖縄基地から発進する米軍機の九州各県に対する空爆が日増しに激しくなっていったころのことである。「沖縄県民は皆スパイだ」との無責任な噂が流布されるようになった。この流言蜚語には「大本営の情報では」といったもことしやかなウソの尾ひれまでついてた。
そのために九州にいた県民疎開者の多くが困惑し、肩身の狭い思いをしていた。

米軍機からばらまかれる降伏勧告ビラに、「沖縄ではこのように米軍兵士と住民が仲良く平和に暮らしています」と占領地区の情景写真が刷り込まれていたこともその噂の信憑性を高めたようである。

流言は流言を呼び、「米軍の捕虜になった沖縄県民が、壕内に隠れている日本兵の在所を教えたので火炎放射器でみんな焼き殺されてしまった」ともささやかれていた。捕虜が同胞の命を救うために隠れている壕を教えたのが、却って裏目に出てしまったのである。

夫安儀の給料は一銭も入らないうえ、沖縄からの情報も途絶え、フミは四面楚歌の状況に陥った。が、フミは沖縄人はスパイだという噂も一時のフーチヤンメー(流行性伝染病)に過ぎないのだと腹をくくり、生き抜くための手段を講じるため村長に会った。
「沖縄は玉砕して帰るところがありません。六人を養わんといけませんので、私に村有地の荒蕉地を貸してください」と哀訴して開拓の許可をとりつけると、フミはいささかもくじけることなく状況を打開するために立ち向かって行った。

フミは山の中腹にある荒蕉地を借り受け掌に血まめをつくりながら、ときには雪を突いて開墾に励んだ。米と麦の収穫をみて村人も、「女だてらに」と目を見張った。
しかし、乳飲み子だった四男が風邪をこじらせ肺炎で亡くなったのもこの頃で、大雪の日であった。その葬儀の日は松本村君ガ園の人たちが総出で野辺の送りに立ち会ってくれた。
フミは心温かい人たちに心の中で手を合わせた。