料亭那覇物語

02/06 11’
第2回 創業者 上江洲フミ(うえず ふみ)
小説よりも奇なるおいたち-2

「ウンチョー、ジンブンヌイチベー、マチクディルメンセータシガ」
(この人は、人1倍の知恵を秘めておられる人でしたよ)

料亭那覇で長く仲居を勤めている姐さんはこう語る。
とにかく席を温めることを知らない働き者で、行動半径が大きくて神経も太い。
従業員に言わせると”なにがなんだかわからない人”だったという。

そんな超大型女将の印象を残して創業者の宇江洲フミは、平成5年4月12日、生まれたときと同じ春の季節にこの世を去っていった。

宇江洲フミは大正2年の春に奥間政治、マナシーの三女として沖縄県八重山郡の離島・黒島で生まれた。この黒島の奥間家の先祖は琉球王朝時代末期、王朝首都 首里から流刑された政治犯であった。

フミの祖父奥間政仁は首里の名門奥間門中に属する士族(宜野湾間切在)の身分だったが、首里王府系の身分の高い人が嫁にと嘱望した女性が政仁に思いを寄せていたことが仇となって、政仁は彼女との結婚を九日後に控えたとき、突然八重山移住を申し渡されたという。

結局その女性は宜野湾で独身を通して生涯を終えた、との哀話が語り継がれている。
黒島は大正時代まで、石垣島からの便船も月に一度か二度しか通わないという絶海の孤島であった。

当時、黒島の隣の西表島は炭鉱景気に湧いていた※。この労働者を相手にマチヤ(雑貨店)を営んでいた久米島から来た夫婦が、天馬船とクリ舟で石垣島に商品物資の買い付けに行く途中、シケにあって黒島に避難してきた。

しばらく滞在しているうちにフミの両親ともなじみになり、子供のいない夫婦だったせいかフミを特別に可愛がるようになった。

ところがある日突然フミが行方不明になった。
両親は、もしやあの夫婦が連れ去ったのではないかと西表島に渡り、あちこち訪ねまわった。

しかしその夫婦は小さな女の子を連れて沖縄本島へ行ったということだけで、その行方を追う手がかりは皆目つかめなかった。
当時フミは二歳、可愛い盛りであった。

※西表炭鉱について
西表炭鉱はその名の示すとおり西表島にかつてあった炭鉱で、明治十九年(1886)から太平洋戦争終結まで六十年余りも続いた。

八重山諸島では子供たちが親のいう事を聞かないときは、「イチマン売イするぞ」(糸満(漁師の町)へ身売りするぞ)とか、「西表炭鉱に売るぞ」といったおどかしの対象として使われたほど恐れられていたという。

西表で石炭が採掘されるようになったのは明治政府の後押しで三井物産は県内の囚人百数十人を使ってはじめたのが最初であったが、マラリアのため長続きしなかったという。

本格的な採掘は大正時代に入ってから、わが国が日露戦争の勝利で富国強兵策を推し進めながら”欧米に追いつき追い越せ”の時代背景があったことも見逃してはならない。

三井が採掘に入る前年の明治十八年、明治政府の元老であり日露戦争で参謀総長として活躍、わが国を勝利に導いた山縣有朋(やまがたありとも)が内務大臣として長門丸で西表島を視察に訪れていたことは以外に知られていない。この事実をひとつとってみても国策として西表炭鉱がいかに重要視されていたかを伺い知ることができる。

三井はその後直接手は下さず、多くの会社に下請けに出したが採掘された石炭の出荷先は主に中国大陸で、日中戦争時代は採炭量も輸出量もピークを迎えていた。

炭鉱夫の多くは九州を主とする本土や沖縄本島の人が多く、明治の末ごろから中国人、台湾人の使役もみられた。昭和期に入ると台湾人経営の会社も参入してきて、数百人余の台湾人抗夫が働いていた。

抗夫たちは斡旋人の甘言に乗せられて送り込まれた人が多かった。約束と違う低賃金と長時間労働に駆り立てられ、借金、重労働、病気の悪循環で苦しめられ、逃亡も繰り返されたが、発見されて捕らえられるとリンチが加えられて悲惨をきわめたという。

参考文献:「沖縄百科事典(沖縄タイムス社)」「西表炭鉱ー関太郎(ひるぎ社-三木健 著)」
「民衆史を掘るー西表炭坑紀行(本邦書籍刊 −三木健 著)」